静かな山里に佇む豪奢なお社「熱田神社」(長野県伊那市)

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高遠城と五郎君と中村彰彦先生

実は私。高遠に思い入れがございます。以前、担当させていただいた中村彰彦先生の歴史小説『疾風に折れぬ花あり 信玄息女松姫の一生』(PHP研究所)は、高遠城のシーンから始まるのです。

高遠城の城主は、武田信玄の五男・仁科五郎盛信。本物語の主人公・松姫(のちの信松尼)の同母兄にあたる人です。五郎さんはいかにも武田一族らしい、教養があり、武術に長け、更には人格にも優れた青年で、城下の民にも慕われました。しかし、織田軍の猛攻により、高遠城で凄烈な最期を遂げるのです。わずか27歳でした。

高遠城址公園に鎮座する新城神社・藤原神社。江戸時代の藩主が五郎山に葬られた盛信公の霊を勧請して創建

五郎さんの首は織田信長の元に送られましたが、遺体は城下の民に荼毘に付され、近くの山の尾根に葬られました。そしてその山は「五郎山(ごろうざん)」と呼ばれるようになったのです。織田家に睨まれるかもしれないのに、「われらが五郎君」の遺体を放置なんてできなかったんだと思います。それだけ領民に慕われていたということですね。私も中村先生の小説を通じて、五郎さんの大ファンになってしまいました。そりゃもう、かっこいいんですよ!

そんなわけでして、勝手ながら私にとって大変ご縁を感じる場所。現在は高遠町は伊那市に編入されてますので、伊那市、と申し上げたほうがいいですね。……伊那市の縄文神社探しにもおのずと力が入ります。2023年の10月に訪れた時には、時間的な制限があって一部しか巡れませんでしたが、なかでも最も印象的だったのが、旧長谷村の熱田神社でした。

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社殿は国指定文化財。ゴージャス!華麗!


熱田神社は長谷溝口地区というところに鎮座しています。こちらも伊那市編入組で、かつては長谷村と呼ばれた地域です。高遠城のような観光エリアからはかなり離れた場所に位置して現在はとても静かな山里です。そんなにのどかな山里に、突如現れる立派な社殿と風格にびっくり😳❗️

驚きつつも境内に一歩踏み入れた途端、優しい風が吹き上がり、落ち葉が渦巻いて、空を明るい茶色に染めました。その美しさに、私は歓迎していただいてる気がして、嬉しくて胸がいっぱいになりました。


それにしても立派です。それもそのはず。本殿は国指定重要文化財に指定されてます。これだけのお社を造営できるのは、文化も資金も豊富だったことを意味します。境内の説明版によりますと、そのお金(300両!の大金)は溝口村の村人が分担して負担したんだそうですよ。つまり、この集落はかなり豊かな里だったのです。ちなみに、棟梁は溝口村出身の宮大工・の高見善八さん。国宝に指定されている「妻沼聖天山の本堂」(埼玉県熊谷市)を建造した林兵庫正清の門人で、名工と称えられた人だそうです。

彫刻は上州勢多郡の関口文治郎、彩色は武州熊谷の森田清吉とありました。妻沼人脈ですね

石棒と石仏遺跡

現在ですと、静まりかえった山里ですが、上州(群馬)や武州(埼玉)とも交流があったことがわかります。また『上伊那郡史』によると、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東夷征伐の帰路、甲斐国酒折宮から山道を越えて当地に至り、行宮(あんぐう)を建てたと伝わります。

つまり甲州(山梨)からの道もあったということですね。そしてそもそも「熱田神社」です。尾張の熱田神宮を勧請したわけですからね、尾張との交流もあったということになります。このような伝承は、各地をつなぐ要路の要所だったことを伝えているのかもしれません。

縄文時代にも、人々が行きかう土地だったんでしょう。境内の北方一帯から、縄文中期を中心とした「石仏遺跡」が発見されています。こちらからは、縄文中期の住居跡や祭祀具・石棒が数多く出土しました。

ちなみにこの遺跡名は、地名に由来しています。この一帯は「字 石仏」という地名だったそうなんです。この石仏とは、段々畑を耕すと、やたらと出てくる石器や土器から名付けられたようなのですが、つまり祭祀具の「石棒」を石仏と見立ててお祀りしたということがあったのかもしれません。

実際、報告書などに、石棒が集められて祀られている写真があったので、ぜひお参りしたくて、周辺を歩き回ったのですが、残念ながら発見できませんでした。

伊那市はまだまだ訪れきれませんでしたので、改めて再訪したいと思っております。

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