縄文神社的視野で考える”下り宮”の理由「一之宮貫前神社」(群馬県富岡市)

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上野国一ノ宮は謎多き《下り宮》

上野国の一之宮である貫前(ぬきさき)神社は、群馬県南西部、富岡市に鎮座しています。このエリアは、長野へ至る碓氷峠の入り口付近の文化圏で、縄文時代からとても栄えた場所。大規模な集落遺跡が多数発見されています。おそらく有史以来、甲信越地方との交易の中継ポイントとして、ずっと栄え続けてきた地域なんですね。一之宮がこの地域にあるということが、その優位性を物語っています。

ところで、貫前神社といったら、なんと言っても「下り宮」です。

「下り宮」というのは、鳥居(門)からの参道が下り坂になっているお宮のこと。初めてお詣りした時、めちゃくちゃ驚いたことを覚えています。門を潜ると下り坂…って、やっぱりなんか不思議な感じなんですよ。「なぜこんな位置関係に?」と思いますよね。

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どうしても気になる「雷斧石」

改めて参拝してみると、この地形の不思議さはやっぱりすごい。まず、車で表参道を上ります。これがスゴイ急坂なんですね。そして大鳥居(総門)の手前の階段の下に車を止めて、急こう配の石段を上って鳥居をくぐると、急坂の先に本殿エリアに至る門(楼門)があります。

普通なら、最初の石段を上って鳥居をくぐって現われる、この高いエリアに本殿を建てるだろうと思います。しかしここには建てなかったということですよね。改めて不思議。

スゴイ急坂ですよ

古くから、この高い部分(鏑川の河岸段丘)を「蓬ヶ丘」とよび、本殿のある低いところは、谷(「綾女谷」)に接する斜面部分を削って作った造成地なんだそうです。

そしてこの不思議な立地は、古代から継続されていることが検証されているのです。あえて建て続けているのには、ここでなくてはならない理由が必要ですね。それはやはり、本殿がある場所が「聖なる場所」だったからでしょう。

 報告書によると、この斜面にあった巨木が神の依り代《ご霊代》となったのではないかと推察していますが、私は社伝にあるという「三個の雷斧石」というのが気になります。

 貫前神社は、「元の鎮座地」と伝承される神社がいくつもあり、白鳳元年に現在地へ遷座したと伝わります。そしてこの地に遷座した理由が前述の「”雷斧石”が出土したので、神授と考え」この地を選んだ‥…とするのです。

「雷斧石」は、石器時代(縄文時代)の石斧のことですから、社伝の言葉を素直に受け取るのであれば、おそらく今の本殿がある段丘斜面付近から石斧が三つも出土し、それを聖なる証として、本殿を建造した、となるのではないでしょうか。

縄文神社的に「下り宮」を考えてみる

 ちなみに境内から遺跡は発見されていないのですが、石器などは出土しているようです。香取神宮などもそうでしたが、大きな神社の場合、長い年月の中でダイナミックに境内を造成したりしますので、遺跡がそのまま出土することはまれです。そのため貫前神社の場合も、現在の境内になくとも、かつての神域や周辺に遺跡がたくさん発見されていますから、縄文までさかのぼることができる聖地であったのではないか、と想像します。

ところで今回、門を潜ってすぐ左手にある日枝神社の鎮座するところから、本殿を望んでいて、おや?と思いました。なんかこういう立地、観たことある…。小金井市の貫井神社とすごく似ているんです。

小金井市の貫井神社は、首都圏篇でもご紹介しましたが、本殿の周囲を囲むように段丘の崖下(はけ)が取り巻いていて、ハケの上から見下ろすと、こんな風景になるんです。

段丘上から観た貫井神社本殿(拝殿部分)。

ただ貫井神社は、ハケ下の湧水が根源と考えられ、下り宮ではないので、その点が決定的に異なります。それに、本殿が向いている方向も逆というか…。

うううむ、と思いながらも、段丘と谷、湧水の関係性から、両神社の地形的位置関係を描いてみたら(便宜上同じイラストに書きこんじゃいました)、「あ!」となりました。

貫前神社は、段丘部分(蓬ヶ丘)から谷(綾女谷)に向かうハケの途中に造成された平坦地(オレンジ部分が削土部分)に鎮座しています。対して貫井神社は、ハケ下の平坦地に鎮座しています。いずれにしても本殿の奥にあるのは、湧水で、おそらくはこの湧水が聖地の理由ではないか、というのが私の想像です。

なんであえて斜面に?という点は、やはりこの付近から雷斧石が出土したという伝承が理由ではないでしょうか。そうでなければ、貫井神社と同じ位置かあるいは段丘上に本殿を立てたほうが、いろんな意味で楽なはずですからね。

加えて雷への信仰も想像されます。雷雨のあとに石斧が発見されることがあったために、石斧は雷神の落とし物と考えられ、信仰されました。また巨木(御神木)も雷が落ちやすいですが、それもまた信仰の対象になりましたから、この斜面には「御神木に雷が落ち、そのそばから石斧が三つも発見された」という出来事が後世(古墳時代くらい?)にあり、聖泉に対する信仰に加えて「極めて強い聖地」だと認識された…ということかもしれません。

ちなみに『日本の神々』(谷川健一編)に、「本殿背後には「菖蒲が谷」というところがあり、神水を汲む泉が湧いているが、女神を祀るので月一回は水が濁ると言われる」とあります。確かに本殿向かって右側に「ご神水道」の石標がありました。しかし社務所でうかがうと、現在は残念ながら水は湧いていないとのことでした。

「貫」は”抜きんでている”という意味

ところで、ここでふと気づいたんですが、貫前神社も貫井神社も「ぬく」が共通してますね。ヌクは、古くは「抜きんでる、秀でる、優れる」といった意味もあります。とすると、貫井は「抜きんでた泉」といった意味になります。すると「貫前(ぬきさき)」とはなんでしょうか。

「さき」は、山や丘が平地に、陸地が海や湖につきだしたところを意味し、聖地とされることが多い地形のことです。すると「ぬきさき」とは、「抜きんでた聖地」といった意味かもしれないな、と想像します。

また、貫前神社の前身であると伝承のある咲前(さきさき)神社では小崎氏が祭祀を司り、また、貫前神社の社家も尾崎氏(と一宮氏)が司っており、いずれも「さき」が付くんですが、やはりこのお社で大切なのは「さき」という言葉が表す何かだったろうと思います。

段丘上の総門(鳥居)内側からの遠望

さて、地形にまつわる話だけでもすっかり書き広げてしまいましたが、こちらはその御祭神についても面白いお話もありますし、地域の信仰世界についても大いなる中心地ですから、周辺の神社とのつながりをトレースしても、これまたスゴイんです。そのあたりは、また追って書く機会があったらいいなと思っています。

とりあえず来週あたり荒船山に登ろうと画策中。荒船山に降り立った女神が、貫前神社に祀られている「比売大神(ひめおおかみ)」ではないかとも考えられているんですよ。しかも荒船山はテーブルマウンテンで水源があり、山頂から縄文時代の石鏃も出土してますからね。これはいくしかありません。雨が降らない日を狙っていきたいと思っています!

一之宮貫前神社
 基本情報:富岡市一ノ宮1535
 縄文情報:富岡市立美術博物館
     (現代絵画などの美術品に加えて考古学的資料も展示されています)

コメント

  1. 鈴木克久 より:

    むむっ。
    下り宮ですか。
    出雲大社も緩やかに参道が下ってましたが、その比じゃないんですね。
    あと、湧水。先日のブラタモリの松本城でもやってましたが、重要なポイントなんですね。

    是非行ってみないと。
    事前知識をありがとうございました。
    緊急事態宣言が解除されたら、10月に行きたいと考えています。

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