関東文化の中心地のひとつ・足利
栃木県と群馬県の県境に位置する足利市は、源氏ゆかりの古都。鎌倉文化の中心地のひとつとして、そして現在でも関東文化の中心の一つだと思います。
源氏との関係が生じたのは、平安時代のこと。源氏の棟梁・八幡太郎義家の三男・義国が足利庄を治め、義国の次男・義康がこの地を引き継ぎ、足利氏を名乗りました(尊氏は義康から数えて9代目)。以来足利は、幕府にとって北関東の重要な拠点であり続けて、文化の集積地ともなったわけですが、どうしてもそのあたりが華やかすぎて、それ以前の足利もすごかったということは、見過ごされがちではないかと思います。実は、足利市内で発見された古墳は1300基以上で、栃木県下一の古墳密集地帯なのです。そして、もちろん縄文時代にも、足利には人の生活がありました。
足利に文化が花開いたのは、偶然ではないでしょう。人が集まる条件・要素があるスポットというのは、いずれの時代もあまり変わらないと思います。足利は、そんなスポットだったということですよね。
ということは、足利にも”縄文神社”はあるはず!?…そんな期待を胸に、先日、足利と佐野の周辺を縄文神社を探して歩いてきたのですが、中でも印象的だったのが「板倉神社」さん。早速ご紹介したいと思います。
渡良瀬川の支川・松田川の河岸段丘上に佇むお社
渡良瀬川は群馬県と栃木県の間の山に源流があり、23もの支川を擁する大きな川です。板倉神社が鎮座する地区は、支川の一つ・松田川の河岸段丘上にあり、松田川を挟んで向かいの低台地に中の目遺跡(縄文中期以降の住居跡などが出土)が出土しています。
実は、板倉神社の境内に遺跡は確認できていないのですが、この中の目遺跡で発掘されたと考えられている巨大な石棒(せきぼう)が、板倉神社の境内にお祀りされているんですね。以前から、その石棒に詣りしてみたいと思っていたので、私はワクワクしながら、拝殿の裏の石階段を上りました。
二荒山の神様から縄文の神様まで
訪ねる前までは、静かな住宅街にある小さなお社だろうと思っていたのですが、実際に参詣すると、いい意味で想像と違いました。確かに煌びやかではありません。でも、小柄ながら立派な石鳥居、大きな拝殿、そして拝殿裏から立派な石段があって、本殿があります。本殿もこじんまりとしてますが、瀟洒で上品です。
境内はほどよくお手入れが行き届いていて、地域の皆さんが大切にされていることがよくわかります。
フラットな境内面は意外に広く、左に向かって摂社が並んでいます。手前から、天満宮、八幡宮、そしてお目当ての「石棒」が!!
栃木県下で2番目に大きい大形石棒
おおお、これはまた立派な…!
石棒は両頭、長さは1m53㎝!
さすが県下2位の大きさです。緑泥片岩とのことなので(ただ見た感じちょっと違う岩質な気が…)、だとしたら、秩父+群馬西部の地域からわざわざ運んだものでしょう。これだけの大きさの石棒を擁するムラということは、周辺の中心となる場所だったことを意味します。
ちなみに大形石棒は、縄文中期初頭に登場した祭祀具です。これまで「石棒」は男性器を模したもので、生殖・繁栄を祈る祭祀具だと説明されてきましたが、最近はそれ以外の用途や概念があったのではないか…と論じられています。考古学者の谷口康浩先生は、「祖霊という観念の発達に密接に関わるもの」と推定されておられるんですが、私もそのお説の方が、すとんと納得できます。
ジンワリと風雅で温かい雰囲気
石棒の右側には、真ん中が少しくぼんだ石が並んで立っています。これも縄文時代の石器・石皿に見えなくもないですが、特に説明がありません。おそらく「陰陽石」の習いで、一緒に祀られたんだろうと思います。
石棒の覆屋の左手にも、小さな石祠があります。そちらにも手を合わせて参拝終了。
そして、何とも言えず風雅に感じたのは、説明板の字が関係しているかもしれません。手書きの文字は、そのままフォントにしてほしいと思うような雰囲気のある達筆で、このお社の雰囲気をより優しく演出しているように感じます。そんなことを思いながら境内をもう一度眺めてみると、ジンワリ風雅な空気が立ち上っているような気がしてきました。
この日は、お天気が曇りだったのがもったいなかったなあと思います。曇りなうえに、お詣りした時間帯が夕方だったので、写真が暗くなってしまい、お社のあったかい雰囲気が伝わりにくい~!
もっとお天気のいい日にまたお詣りしたいと、心から思いました。そう言えば、先日熊谷のお社をご紹介した時も同じようなことを書きましたが、やはりお天気って大事ですよね。
板倉神社
基本情報:足利市板倉町436
縄文情報:足利市郷土資料展示室(足利市東砂原後町1055)
*足利市内の遺跡の出土品が多数展示されています!
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