荒川中流域の要衝・熊谷
私事で恐縮ですが、私は高校時代を熊谷市内で過ごしました。自宅からバスで50分もかかって、すごく遠かったのですが、どうしてもその高校に行きたいと思って、あえて志望したんです。「古き良き」日本の雰囲気が残る、本当に素晴らしい高校でした。懐かしいな~。
そんな個人的な思い入れを差し引いても、熊谷は実にいいところです。独自の文化がある。私が住むエリアと違う独特な言葉をたくさん持ってます。それはやはり、長い長い歴史があるからなのです。
熊谷をざっくり表現するならば、いつの時代も、荒川中流の要衝として栄えてきた場所である、ということ。暴れ川とよばれる荒川は、人があらわれる前から乱流を繰返して、この付近に沖積扇状地を形成しました。そのため特に縄文くらいまでは、扇状地周辺の台地部分や自然堤防上に、人々の生活の場がありました。そのエリアは、現在の熊谷の中心地から見ますと、かなり郊外にあたります。
出雲族ゆかりの古社
今回ご紹介する出雲乃伊波比(いずものいわい)神社は、熊谷駅から車で20分ほど。数年前の市町村合併で現在は熊谷ですが、かつては江南町という町に属していました。
実のところ、境内に確認されている遺跡は古墳時代のものだそうなので、ちょっと迷いました。しかしこのお社を囲うようにひろがる台地上からは、古墳だけでなく、旧石器や縄文の遺跡が確認されているのと、周辺の雰囲気が最高に気持ちがいいので、周辺と環境も含めて「縄文神社」としてご紹介したいと思います。
出雲乃伊波比神社は、その名前の通り、弥生時代以降に移住してきた出雲系氏族にゆかりのお社。武蔵国造は出雲系氏族でしたから、武蔵国造家にゆかりの深い名社です(そしてこちらは式内社論社)。
ちなみに埼玉県には、大宮氷川神社に代表されるように、出雲族ゆかりのお社がとても多いんですね。拙著『縄文神社』でも、すでにほぼ同じ名前のお社・「出雲祝神社」(入間市)をご紹介しましたが、私が知る限り7社ほどありまして、「出雲伊波比神社」 「伊波比神社」と表記するお社もあります。
荒川水系・和田川の水源にまつわる聖地
名著『武蔵の古社』(菱沼勇著)に、「入間郡の出雲乃伊波比神社の出雲祝氏一族が入間川を下り、和田吉野川をさかのぼって横見郡(現吉見町)に転住、さらに和田川をさかのぼって水源近くに当社を立てたのではないか」(武藤要約)という推論が述べられてますが、神社や古墳のありようを組み合わせて考えると、なるほどな~と思います。
ただし、この出雲族の物語は、あくまでも弥生時代以降のこと。私が注目したいのは、その時代からさらに数千年遡った時代になりますので、そのことにとらわれ過ぎてもいけません。
しかしながら、この地に人が暮らし祭祀を行ったということは、縄文も弥生も、かなり近かったんじゃないかな、と思うんです。
おそらくこのお社の成り立ちは、この和田川の水源に関わると想像されるのですが、縄文遺跡が多く発見されるのも、台地周辺に流れる和田川と湧水の存在が関係していると考えていいと思います。そういう意味では、縄文時代の聖なる場所と、弥生以降の聖なる場所が遠からずな場所にあり、ある部分共通していると考えるのは、自然な気がします。
上の写真を見てください。初めてこちらにお詣りした時、「おおおお」と声が洩れました。和田川の清らかな流れと、穏やかな風景、そしてそこに鎮座するお社の様子がたまりません。周辺には遊歩道も整備されてますし、周辺を見ながら川のほとりを歩いていると、だんだん心がほぐれていく気がします。
今は冬ですから、風景が少々おとなしいですが、春になったら緑が溢れ、丘陵には木の花がたくさん咲いて、華やかになるでしょう。武蔵野の春は、ポップで可愛いんです。
早く春にならないかなあ。3月になったら、また拝観したいと思います。実はこの写真を撮った日は、気温がかなり低くて、長居できなかったんですよね^^;。和田川の水源も探してみたかったのですが、よくわかりませんでした。改めて、じっくり取材もしたいなと思っております。
出雲乃伊波比神社
基本情報:埼玉県熊谷市板井718
縄文情報:熊谷市立江南文化財センター(熊谷市千代329番地)
*車で7分。周辺の遺跡の出土物など見学できます。
コメント