関西を代表する縄文遺跡・鳴神貝塚と紀伊国の名神大社で縄文を思う「鳴神社」(和歌山県和歌山市)

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縄文遺跡が少ない関西地方

拙著にも書きましたが、”縄文神社”のアイデアを思いついて調べ始めたとき、奈良文化財研究所の「縄文遺跡数及び遺跡密度」を見て、驚きました。全国で「関東地方」が圧倒的に多い数値だったのです。同時に驚いたのは、関西の遺跡数と密度が低いことでした。関東と比べたら約10分の1の遺跡数と密度なのです。

日本史を通して中心的な舞台として語られる近畿地方であれば、もちろん縄文時代にも遺跡はあるだろうし、少ないといっても僅差じゃないかと思いこんでいたんですよね。ところがどっこいです。いやあ、ほんと不思議ですよね。その理由は先生方がいろいろお考えなのですが、おおざっぱな言い方をすれば――。

食料になるようなものが特に少ないわけではなくむしろ豊かなので、大きな社会を形成して集住生活をする必要性が弱めだったからかな??→→→つまり、痕跡が遺跡として残りづらい?ということもあるかもしれない、という感じです。「感じ」なんて言って恐縮ですが、痕跡に残らない部分はどうにもなりません。

いずれにしても、「関西には縄文の痕跡が関東と比べるととても少ない」ということは事実ということですね。今後何かエポックメーキングな発見があるかもしれませんが、今のところ分かるのはその事実まで…ということでしょうか。

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和歌山市にある縄文遺跡・鳴神貝塚

とはいえ比べたら少ないというだけで、ちゃんと縄文遺跡はあります。特に和歌山市にある鳴神貝塚は、早くから縄文時代早期~晩期に継続的に形成されたことが確認されている貝塚で、集落遺跡の一部と考えられています。

鳴神貝塚遠望。竹林のあたりが貝塚

鳴神貝塚は、紀ノ川を中心として形成されている和歌山平野中央部にある丘陵地帯の突端に位置しています。やはり実際に訪ねてみますと、「ああ、なるほどなあ」と思う地形にありましたよ。周辺よりちょっと高台なんですよね。

縄文早期以降、ずっとなんらかのかたちで集落があったため、様々な時代や種類の遺物が発見されていますが、縄文後期のレイヤーからシャーマンと考えられている女性の人骨が発見されているのが、特にこの遺跡を印象深いものにしていると思います。

こんなに詳細な説明板が!肝心なことは必要十分に書かれています。

上の写真の右下に、縄文時代の和歌山市周辺の地図が掲載されていますが、和歌山平野のほとんどが海だったことが分かりますね。

鳴神貝塚と同じ地区に鎮座する鳴(なる)神社

今回お詣りした鳴神社は、厳密にいうと私が定義する《縄文神社》ではないかもしれません。というのは、境内から縄文遺跡が出土しておらず、また縄文時代には海の中だったからです。

しかし雰囲気がなんとも言えず”縄文神社らしさ”があり、ステキだったので、同地区内の鳴神貝塚とセットで《縄文神社》として紹介したいと思います。

鳴神社

鳴神貝塚から歩いて5、6分。フラットで静かな住宅地を歩いていると、側溝に綺麗な水がトクトクと流れていることに気付きます。雨の後だったこともあって、かなりの水量です。

鳴神地区には水路を見かける。お水タプタプ

紀伊国の名神大社の中でも特別なお社

実はこの鳴神社、「名神大社」なのですね。名神大社は、平安時代の法典の一種である「延喜式」に記された神社の社格で、朝廷から特に重要と考えられたお社に与えられたものです。

加えて、紀伊国は名神大社が12社あるんですが、中でも特別扱いされたお社が4社ありまして、鳴神社はそのうちの一つなんです。それだけ、非常に重要視されていたお社だったということですね。

現在は「なるじんじゃ」と読みますが、古くは「鳴の神の社(鳴という場所に坐す神の社)」と読み下したんじゃないかな、と、ふと思いました。このあたりは今は「鳴神」という地名だというのも、気になりますね。「鳴神(雷神)のお社」だったのかもしれませんが、しかし、現在のご祭神にはそう言った要素がないので、ちょっと違うように思います。

そう考えてみると、やっぱり素直に「鳴」という地名だったんじゃないかなあ…。ちなみに「鳴」は水に関わる言葉なので、この場所の地形条件と符合しますね…。そんなことを想像してキョロキョロする私。それはさておき、まずは参拝いたしましょう。

本殿が二つあり、それぞれに祀られている神が異なります。右の本殿には「水門神」である速秋津彦命・ 速秋津姫命 。「水門(みなと)」は、川や海などの水の出入り口を意味しますので、水の神であると同時に、境界を守る神とも考えられますね。そして左には、忌部氏の祖神である天太玉命(あまのふとたまのみこと)が祀られています。

天太玉命は、『縄文神社~首都圏篇~』でもご紹介した房総半島の名神大社、安房神社の祭神でもありますし、横須賀に鎮座する安房口神社はじめ、関東においては、海人族による開拓にまつわる伝承と関係しているように思います。この鳴神社でも、おそらくは忌部氏は弥生時代の移民の一族で、この地に元々祀られていた根源的な神は、この「水門の神」だったんだろうなあ、と想像します。

どことなく漂う南洋の朗らかさ

境内はゆったりとしていて、とても落ち着きます。気のせいか、とても気持ちのいい風が汗びっしょりの私の首筋を、すっと撫でてくれました。こういう雰囲気は、やっぱり縄文神社っぽいんですよね。

二つの本殿の間に梛(なぎ)の御神木があり、ちょっと不思議な配置です。

梛は、常緑樹で温暖な地域にある樹種なので、関東ではあまり見かけません。ただ、海側の半島などではないわけではなく、房総半島を巡礼していた折に、側高(そばたか)神社(千葉県香取市)で御神木になっていたのを見かけました。側高神社は祭神は秘密とされていますが、私は海の女神だと思っているんです。つまりこの木を見ると、海人族にゆかりのある場所にありそうな樹種だなあと思います。何か、海の民らしい明るさというか、ネアカというか。朗らかな感じがするんですよね。この境内の雰囲気は、この梛の木の雰囲気とシンクロしていますね。

境内には、式内社の堅真音(かたまおと)神社と、香都知(かつち)神社が合祀されています。上の写真のお社に、その二つの神社が一緒に祀られているんですが、式内社が2社も同じところに…ってなんだか贅沢ですね。

実は、和歌山県は江戸時代から神仏分離が図られたそうで、神社の合祀も行われていました。加えて明治の神仏分離令の折に、神社統合を加速して進めたようなんです。関東では、合祀すると言ってもここまで徹底して行われなかったと思うので、この厳格さは、お土地柄かなと思って驚きました。

もともとあった場所ではないところに神社が遷ってしまっているということは、縄文神社的な立場から言うと、とてももったいないことだなあと思っちゃうんですけどね。

それでも、ずっと同じ場所に鎮座する大きなお社がたくさんあるのが、和歌山の懐の深さでもあります。

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